ひっそり鰓呼吸

無軌道で無計画な徒然日記

誰かに何かを教える時には、人は本当の姿を見せる

小学生の頃にはあまりない事だが、人に何かを教えると云う行為は、中学生になった途端に急激に多発する。

 先輩後輩の繋がりが出来るからだ。

 それまで教わる一方だったのが、たった1年程度の経験のあるなしで突然人に教える立場になる。これはまあ酷と云えば酷な話ではあるが、様々な経験を積む事そのものに意味が大きい年頃なので、どんどん失敗すれば宜しい。

 そうした経験の中で、自分は人に指示を与えるのが下手だとか楽しいだとか、向き不向きを自覚する事もあるのだ。

 人の上に立つのは向いてないなーと思えば、スーパーサブを目指してもいいし、只々前進する事だけを考えるシンプルさに魅力を感じるのであれば、ランニングバックを目指してもいい。

 兎も角、自覚と云う材料から絞り出された決断として、自らのポジションや立ち位置を目指すのは、誰にも等しく与えられた権利だ。

 結果として、その希望や目論見が成立するか否かは、シチュエーションや時代などの外的要因によって決定される事が殆どだ(残念ながら)。

 しかし、成立したのであれば、自ら望んだ結果である事は間違いないわけなので、そこには不幸せはあまりない。

 さて。

 問題は、本人の希望や目論見とは無関係な状態で、立場や役割、ポジションが決定されるケースだ。これはもう本当に不幸せとしか云いようがない。そしてそれは複数人にとっての不幸せであるのだから、更に始末が悪い。

 話を戻す。

 人に教える立場を、少なくとも是として受け入れたなら良いのだが、受け入れていない場合は悲惨だ。教えるつもりがないのに体制に要求される。例えば企業に就職して2年目以降に部下を充てがわれたケースなどがそれだ。

 部下に対して少なからず責任感を感じるのであれば、望んだ結果でなくともそれなりに成果を出す事が出来るだろう。

 しかし責任感が希薄な人間など掃いて捨てて焼却する程、居る。もう当たり前の風景として無限に居る。そんな人間が何かを人に教えた時にどうなるか。

 無駄に高圧的になり、無駄に厳しくなり、無駄に人を見下し、無駄に反感を買い、無駄に他人をイラつかせ、無駄を量産するのである。

 お前はDIOか。

 無駄を量産しても構わない状況なら本当に構わないが、そう云う幸せな状況は中々ないのが世の常。無駄が求められない状況にこそ無駄はより発生しやすいのである(残念ながら)。

 この無駄は、実はある意味で本質的な側面を持っている。それはつまり、無駄を発生させている張本人にとっての真なる姿は、その無駄を発生させている時に表出すると云う事だ。

 高圧的になり厳しくなるのは、心の奥底で高圧的に語っていたり思っていたりするから、そうなるのである。

 見下すようになるのは、心の奥底で日常的に見下しているのである。

 人をイラつかせたり反感を買っていたのは、実は常日頃からだったのである。

 心の中は人には見えない。今のところどうやったって見えない。しかし、直接的には見えないだけで人に何かを教えると云う行為をした途端に、心の中は簡単に現実世界にプリントアウトされてしまう。他人に対する教え方、と云う形で。

 だから人に何かを教える時には注意した方がいい。あなたは、知らず知らずの内に、心の中をさらけ出しているのだから。■■