ひっそり鰓呼吸

無軌道で無計画な徒然日記

謙遜する時には空気を読め

謙遜。日本人が大好きな振る舞いの一つだ。何故こんなにも好きなのかと不思議で仕方ないが疑いようもなく大好きだ。僕はあまり好きではない。好きではないから一切謙遜する事はない、なんて事はないが時と場合をしっかり選んでいるつもりだ。

 無条件に謙遜する人がいたとしたら、僕はその人をきっと信用出来ない。

 謙遜するにもされるにも重要だと思うのは、その謙遜が発せられた文脈を理解しているか否かと云う点だと思う。

 大きく分けて謙遜には2種類しかない。誰かに対する気遣いと、勘違いした礼儀意識の何れかだ。もう徹底的にこの2種類に集約されると云って良い。

 前者は、会話やコミュニケーションの文脈を理解していた人類だけが大人的振る舞いの結果として発する事の出来る謙遜だ。これには、その場に居る誰かへの気遣いであったり、尊敬の念であったり、色々の想いがその裏側に存在していたりする。そしてここが重要であるが、互いにその関係性や想いを理解し合えているからこそ、成立する謙遜なのである。

 それに対して、勘違いした礼儀意識の場合はそもそもそう云った気遣いなどの、気持ち的ななにかを発端としていない。なので、謙遜の内容はTPOから乖離したなんとも不思議なモノになりがちである。

 所謂テンプレ対応だ。

 そこには相互理解が介在しない為、コミュニケーションの質としては酷く低俗な部類になっている事も多い。

 しかし、社会人経験が浅い時などはこの勘違いした礼儀意識に支配されがちなのも事実だ。ここは謙遜しておくべきなのか?謙遜しておくのが正解なのか?と、まるでコミュニケーションには絶対的な正解例が厳然と存在していて、そこからはみ出る事は社会人として悪てある、と信じているかのようだ。

 気持ちは解る。

 それまで経験した事のない人間関係が次々と構築されるし、自分の感情とは無関係に思える理屈によって物事の良し悪しが決定されている、ように見えるものだろう。

 しかしよく考えて欲しい。社会は実は大変シンプルなのだ。総てとは云わないが想像しているより遥かに多くのケースで、物事は簡単なのである。

 謙遜もそうだ。

 相手への気遣いから素直に出てくる言葉、感謝の念から素直に出てくる言葉なら、礼儀を気にして云いたい事を我慢する必要などないのだ。

 それでももし不安になるなら、感謝の言葉を述べればいいと思う。

 褒められたり讃えられた時は、その気持ちに対して、ありがとうございますと云えばイイ。お礼を述べて失礼い当たる事は滅多にない。

 そうやって経験を積み重ねていく事で、謙遜する場面についても、じんわりと判ってくるのである。

 下手な謙遜程白々しいものはない。◼️◼️