ひっそり鰓呼吸

無軌道で無計画な徒然日記

人の話は聴くべきなのか?聴くべきではないのか?

子供の頃から散々云われてきた。人の話はちゃんと聴きなさいと。人の話を注意深く聴けば、大抵の事はその中に答えが見つかる、と。

 素直で大人が大好きだった僕はその言葉を鵜呑みにして生きてきた。確かに人の話を聴く事は概ねの場合で歓迎されたし咎められる事は無かった。

 しかし、本当にそうだろうか?

 そんな疑問を持てるようになるには、数十年の月日を要した。何とも強力な呪いだったと、今は思う。

 そう、これは呪いだ。

人の話の価値

人の話の総てが無価値か、無意味か、と問うならば答えは否。無価値で無意味な話もあれば、有意義で為になる話もある。まあ当然だ。ではその価値の有無はどうやって決定されるのか。ポイントはソコだと思う。

 「なんでも人の話はしっかり聴く」は「どんなに無意味な話でもわざわざ理解する努力と時間を浪費して付き合う」と云い替えられると感じている。

 人の話を聴く時には、それなりに理解しようと脳味噌を回転させ、時には疑問を抱き質問し、ジワリジワリとカロリーを消費するのだ。他人の言葉を理解する行為は、想像以上に疲れる事だと思う。体を動かしている訳ではないからパッと見は気付きにくいが、ものすごーく疲れる。

 仮に話を聴く相手が長年連れ添った伴侶であった場合等は消費カロリーが軽減される事があるかもしれないが、それでもゼロではない。物事の構造を理解し相手の論旨を把握する為に実は複雑な思考をしているし、最悪の場合では努力の甲斐無く理解できない事さえある。

 それ程までにリスキーな行為だとした上で、さて誰の話は自分にとって有益か、価値があるのか、考え出したら人の話を聴いている暇などなくなり本末転倒ループに陥りそうになる。

いつでもいつ迄も価値のある話など存在しない

この事に気が付いて欲しい。ちょっと長い目で歴史を振り返れば判る事だが(ちなみに僕は学校教育としての日本史や世界史は大嫌いだ)、善悪、常識、礼儀、などの社会通念は時代や場所が違えばまるで変わってくる。同じ日本でも、20年前の常識は真逆の解釈に改変されている事だって珍しくない(例えば育児の常識とか)。

 これは年単位だから起こっている変化だろうか。いやそうではないと僕は思う。毎日、毎時、もしかしたら毎秒だって変化は起こっていて、ほんの数分前の常識は今や非常識となっている可能性だってあるんじゃないだろうか。

 だとしたら、何を信じればいいのか。

 それは、「今の自分の感覚」以外には有り得ないと思うのだ。明日の自分でさえ、今日の自分とは違うかも知れないのだから、今決めたい事は今イイと思った事を信ずるより他はない。

 誰の話に価値があるのかと云う問いは、人によってその答えが違う。当たり前だ。僕の妻の言葉の中に含まれる価値は、会社の同僚にとって等価かと云えば必ずしもそうではない。それも、今日と明日でまた違ったりする。

 つまり人の話を聴く時、その相手の言葉の中に自分にとって価値ある言葉が含まれているか否かは事前に決定されているのではなくて、聴いたその瞬間に自分が決定し変化するのではないだろうか。自分が総てを決定しているのだ。

 こう考える事で、僕は「絶対的な価値を有する話」など無い、と思えるようになった。

 云い替えると、誰のどんな話をいつ聴いても、いつでも価値ある話に解釈出来るし無価値に貶める事もできる、って事だ。

広告は騙していない

 広告やプロモーションの言葉には嘘がありみんなは騙されている、なんて事を耳にする事がある。例えばはてな界隈では、ブログやメディア上での発信に価値を設定し有償のサービスを展開したり、情報商材と云った名称で扇情的なノウハウを販売していたりもする。

 僕はそれらの商品やサービスに価値を感じないタイプだ。しかしそれもまた絶対的に価値がないとは云い切れない。誰かにとっては価値ある情報であろうし、誰かにとっては100万円出しても惜しくないと思えるかも知れない。

 僕は約20年間ゲーム開発と云う職種で生計を立てて来たが、その活動の中で得た経験則は同じゲーム開発業界への就職を目指す若者にとって有益な情報源足り得るかも知れない。しかし銀行マンにとっては何の意味も無いかも知れない。

 ある物事の価値はその人の生活や環境、主義主張等によって、様々に変化する。

 繰り返しになるが、自分にとっての価値を決定するのは自分でしか有り得ないのだから、他人にその価値は計れないと思うのだ。他人の価値設定に耳を貸す事もあろうがその判断も結局は自分で下す以上、 やはり自分の価値判断の結果だろう。

 明らかな虚偽の内容が告げられていた場合は論外だが、選び取った側の判断に間違いなど無いと思う。その価値を感じて対価を支払う事に納得しているのなら、自然な行為だろう。

誰もが納得する価値など存在しない

僕はクリーチャのフィギュアをコレクションしている。同じ趣味ではなくてもコレクタの知人は何人かいて、各人それぞれの価値基準を持っている。みな自分の価値判断を信じており、どんなモノにいくらくらいなら支払う気分になれるかが比較的明確だ。

 例えば僕などは10万円までだったら、コレは!と思ったモノを迷わず買う。10万円以下ならあまり値段を気にしない。コレは別に珍しく無い事だと思うが、何に価値を感じているかが明らかなケースとして分かりやすいと思う。

 ある人は同人誌に何万円も使う事に大きな価値を感じているだろうし、ある人は洋服だけはお金に糸目をつけないなんて事だってあるだろう。

 自分の価値基準は他人に左右されない、出来ないものだ。

究極的には人の話を聴く必要などない

自分で判断出来ない時は他人にすがる事もあろう。どうにも出来ない時に解決策として誰かの助言が欲しくなるものだ。未熟だから、と自らの思慮の無さを理解している気分になって、つまり控え目な態度であると信じて人は他人を頼る。

 馬鹿は休み休みにして欲しい。

 人の意見を頼ると云う行為は、途轍もなく傲慢な行為である。自らの決断を放棄した上に、責任ある決定を他人に丸投げするのだから。その事は気付いていて欲しいものだ。最低限の礼儀としては、少なくとも自分の考えや意見は持った上で、その決定材料が足りないと感じるから助言を貰いたい、と 云うスタンスだ。

 自分の考えを持つ程度の事もしない人間は、お金や時間を使ってどんどん人に自分の人生の決定を投げまくれば宜しい。そう云う事で金儲けをしたがっている人はたくさんいるのでね。■■