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ひっそり鰓呼吸

無軌道で無計画な徒然日記

素養や素質ってのは徹底的な努力の先に待っている分岐点だ

素質があるとかないとか、素養があるとかないとか、人は時々云うけれど。素質がない、なんて事が本当にそんな簡単に判るものだろうか、と云う疑問を常々感じている。何度かチャレンジした結果、どうにも思ったような結果が出ない時に「ああ自分には素質がないのかもしれないな」とか「お前には素質ないわ、諦めたほうがいいよ」なんて事を口にする。

 ちょっと待て。

 たった数度チャレンジして出た結果をもって、素質のあるなしを判定出来ると思っているのか?まさか?そんな事があるハズはない。数度のチャレンジで上手く行ったとしたらそれは素質の有無によるものではなく、単なるビギナーズ・ラックだと考えるべきだろう。

 仮に素質があったとしても、数度のチャレンジで出た結果はその素質が影響して出せたワケではないと思うのだ。物事はそんなに簡単じゃない。

 それでも、多くの人々はたった数度(それが十数度にわたってもいいが)の行為に結果(それも結構欲張った内容)を求めたがる。更には、その数度の内に結果が出ないともう諦めたがる。

 「素質がないから」と。

 馬鹿を云うのも休み休みにしてもらいたいものだ。ビギナーズ・ラックを手に入れなければ諦めてしまったり、徹底的な努力もしない内から結果を求めたりする人間は、いつまでたっても「素質がない」ループから抜け出す事は出来ないだろう。

 もしかしたら自分にはその素質があるかもしれない。仮になかったとしても、努力の結果、素質のある人間と同程度の成果を生み出せるかもしれない。そんな可能性を信じてもいない人間が、「成果」と呼べる何かを成し遂げる事が出来るだろうか。

 素質の在る無しを、行動の動機にしてはいけない。

 「やりたい」と思ったその感情や気持ちをもっともっと大事にした方がいいと思うのだ。それはとても貴重な事だと思うのだ。どこまでも純粋な好奇心や理由無き衝動によって突き動かされる事をやったほうが、いいに決まっている。成果のみを求めて自分の素質を値踏みしていたら、想定した事よりも遥かに小さな結果しか導き出せないものだ。

 好きが高じて何かを実行し続ける事には大きな喜びが待っている。素質が無くても、素養が無くても、だ。

 だから、諦める為の理由をアレコレと探す時間があったら、自分がもっと好きになれる何かを探すといいと思う。「何が理由で出来ないか」を考える事ほど後ろ向きな事はない。

 やりたい事をやって失敗し、しかし好きだから続けて創意工夫し、失敗から学び経験則をためて出来る限りの施策をやり尽くしたあとで、自分には素質があるのかないのかを判断すればいいと思う。そこまでやったら、素質の在る無しなどとうの昔に関係なくなっているだろうが。

 つまり素質など、単なる結果を表現する言葉に過ぎないと云いたい。

 なんでもかんでも、べき論を掲げて努力出来る程に人間は真面目ではない。だから努力出来る対象を見つける事がまずは大事だ。自分が打ち込める何かを見つける事が出来るか否か。人生はその為にあると思える。■■